ブログ幸福の科学

皆さんの心の奥はダイヤモンドのように光り輝いています

これを仏教では仏性といいます

仏と同じ性質、悟りを得る可能性という意味です

苦難困難は姿を変えた仏の大いなる愛です

仏は皆さんが乗り越えられない問題は決して与えません

この地上という世界はひとときの思い出でありひとときのメルヘンです

そういうつかの間の人生を我々は生きています

苦難困難で皆さんは悩乱するかも知れませんがそれもまた死んであの世に還れば懐かしい思い出メルヘンとなります

苦難困難をどう乗り越えてそこからどんな仏の教えメッセージを学んだかが我々の人生では大事なのです

苦難困難に負けて自殺なんてバカなことはしないでください

私も苦難困難と格闘してる最中です

私は自殺志願者でした

でも今は寿命が来るまで何とかして生き抜こうと決心してます

私が自殺願望とさよならできるようになったのは幸福の科学に入ったおかげです

ある日自分にも仏性があるんだということに気づいたんです



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僕が成長するのを待ってくれている存在がいる

これが慈悲というものなのだろうか

許す愛というものだろうか?

守護霊様だろうか

芽が出るのを我慢強く待ってくれている

ような気がする

僕が発芽するのを楽しみにしている存在がいる

死後も「肉体を自分である」と思う人には苦しみが続く

大川隆法先生の著書「復活の法」によると肉体の自分を自分だと思ってる人は

死んでも肉体の自分を自分だと思ってるそうです。

例えば交通事故で急死した場合

死んだ後、霊体になっても頭から血を流して「苦しい苦しい」という状態で生存し

遺族の背後霊になってる場合がよくあるそうです。

肯定的な想念を発信しよう

未来を幸福なものにしようと思うならば、
肯定的な種子を心のなかにまき、
育てなければいけません。
その種子を育てるには、
常にくり返し考えることです。
悲観的な想念に負けそうになったときには、
それに負けないだけの肯定的な想念を
自家発電しなければいけません。
それは、気力を出すことであり、
努力をすることです。
今日できることをやり、
明日の希望を考えることです。

人格拡大への試練

>自分がもし挫折のなかに置かれたり、あるいは、絶好調だったのにダウンしたりという試練があったとしても、どうかそれをマイナスだと思わないでいただきたいのです。その期間にこそ、みなさんの魂は練られると同時に、人々の心というものがわかるようになります。
「自分が、自分が」と思っていたところが、自分などいなくても、仕事が順調に動いていくのを見るに到ります。残念なことですが、世の中はそのようになっているのです。

光 私


私 光


私の中に光があり


光は私の中にあり


光の守護霊は私のそばに臨在し


私の言動を見守っており


光の守護霊がそばにいるだけで私は幸せに包まれる

信仰を捨て去れ

>ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。
(スッタニパータ 1146、中村元訳『ブッダのことば』岩波書店)

仏典にはこのようにブッダのことばが書いてあります。
その一方でブッダのことばとして「信仰は最上の冨である」という箇所があります。
この矛盾をどう説明するかというと
仏教が登場した初期は仏教以外の六師外道の教徒に対し「信仰を捨て去れ」と言い仏教が根付いたところで仏陀に対する信仰を「最上の冨」と言ったのです。
だから私は創価学会に対しては「信仰を捨て去れ」と言うのであります。

「厚かましい人」とは、どう付き合えばいい?

人との付き合い方で、もう一つ難しいのは、「相手の侵入をどこまで許すか」ということです。
心の扉を開くと、入ってくる。こちらが一歩下がると、もう一歩入ってくる。
さらに一歩下がると、また一歩入ってくる。
このように、どんどん入り込んでくる人がいるのです。
このタイプの友達に困っている人はかなり多いと思います。
これは、友達づきあいを始めたが最後、家のなかに上がり、お米の数まで数えてしまいそうなタイプです。
一言で言うと厚かましいわけですが、こうしたタイプであるため、他の人から疎(うと)まれる人もいるのです。

したがって、「オール・オア・ナッシング」、つまり、「友人なら全部受け入れ、友人でなければまったく受け入れない」という考え方をとるのではなく、距離のとり方を常に考えておく必要があります。
「親しくとも、ここまで」という距離のとり方があるのです。
一定の距離をとっておくと、長く付き合えるのですが、その距離が短すぎると、お互いに干渉し合って、長く付き合えなくなることがあるので、距離のとり方を大事にすることです。
この辺を間違えると、相手にどんどん入ってこられて、嫌になり、パシッと切ってしまうことになります。
そうすると、相手は、「あれほど自分に好意的だったのに、手のひらを返すような反応を。納得がいかない」と考えます。
こうしたタイプの人は、「自分が入りすぎた」ということが、なかなか分からないので、最初から少し距離をとっておいてあげることです。
余談ですが、世間には、「一緒に歩いている男女を後ろから見て、その距離を測れば、どういう関係かが分かる」という説があります。
その真偽のほどは分かりませんが、相手によっては、空間的な距離だけでなく、心理的な距離をとることが必要なのです。
心の部分においても、少し距離をとったほうがよいのです。
心理的な距離のとり方が上手だと、いろいろな人と付き合えるようになります。
ところが、たいていの場合は、深く付き合いすぎるか、まったく付き合わないかのどちらかになって、相手から学ぶものが少なくなっているのです。

目の前にいる人の長所を友とせよ

優れたる者に反発して、その逆のほうばかりを選択していくと、

不幸な人生に必ずなっていきます。

才能においても、経験においても、優れたる者を友とすることです。

(大川隆法先生著『青春に贈る』第3章)

信仰を捨て去れ

仏教は科学だ
信仰じゃない
それが初期仏教の教えの核心であり仏陀様の考えだ
文証理証現証を備え
理論通りに修行すれば阿羅漢という結果を誰もが追体験できたという意味において仏教は当時のインドの宗教とは一線を画しているという意味で信仰ではなく科学だったのだ 最新鋭の科学だ
それが仏教だったのだ
だから仏陀様は信仰を捨て去れと言ったのだ

「夫婦の縁、親子の縁」のスピリチュアルな実態

>夫婦には深い縁があります。
よく「三世の縁」と言われますが、魂の真実を知ったならば、「夫婦は深いところで結ばれている」ということが分かるでしょう。
「偶然にこの世に生まれ、偶然に結婚し、偶然に子供をもうけ、偶然に数十年の人生を歩む」ということは、ありえないことです。
「何千万人もの相手のなかから唯一の人を選ぶ」ということは、偶然ではありえないことなのです。
「人類の大多数は数十年おきに転生している」という事実を知れば、自分が伴侶として選ぶ人は、過去の幾転生のなかでも伴侶だった相手である場合が多いことが分かるはずです。
それは当然のことです。
今世、生を享(う)けて生きていくにあたって、「過去、うまくいった人、うまの合った人と、また家庭を持とう」と思うことは、ごくごく自然な感情でしょう。
したがって、夫婦は、「今世、素晴らしい家庭を営み、来世でもまた夫婦となる」ということを夢見て、理想家庭の建設に邁進することです。
それこそ、今世の素晴らしいロマンだと言えます。

また、親子の縁も非常に深いものがあります。
親子の関係も、偶然にできることは、まれなのです。
親の立場からすれば、「出来のよい子供は、自分との縁で生まれたが、出来の悪い子供は、何かの間違いで生まれたのだ」と思いがちですが、そうではありません。
親子の縁のなかにも、魂の教育が織り込まれています。
家庭という問題集を解くために、親子の縁は設定されているのです。
そのため、親が子供のことで苦しんだとしても、それもまた魂の問題集のなかの問題であることを忘れてはなりません。
その子供は、自分が選んで子供とした魂であり、必ず自分に縁のある子供なのです。
親が子供を育てるなかには、一つの重大な教訓が潜んでいます。それは何かといえば、「親は、子供のなかに、自分の分身、自分の似姿を見る」ということです。
それによって、親は、さまざまなことについて身につまされ、子供のときの自己を振り返って、自分の性格がどういうものなのかを知ることができます。
子は親の鏡であり、親は、子の姿を見るにつけ、自分自身のことが反省されなくてはならないのです。

また、親にとって、子供は、自分の叶(かな)えられなかった夢を叶えてくれる、とても大切な”希望の木”でもあります。
そのようにして、親子代々、連綿とロマンが語り継がれていくのです。
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