ブログ幸福の科学 -5ページ目

ゴッホの絵とムンクの「叫び」

「私は、フランスで、ゴッホの作品ばかりが展示されている美術館に行ったことがあるのですが、さすがに頭がくらくらしたのを覚えています。ゴッホの絵を1枚くらい見ている分にはよいのですが、すべてゴッホの作品ばかりとなると、何か異常な世界に入ったような感じがして、頭がくらくらしました。ゴッホの作品には、やや、そういう異常性がありました。
ムンクの作品も、好きな人は多いのでしょうが、『叫び』という作品に描かれている怖い感じは、どう見ても地獄界の波動に近いでしょう」

地獄界での強烈な経験

「たとえば、人を殺して、改心もせず、死んで地獄へ行った人がいるとします。その人が行く世界は、どういう所かというと、人殺しがたくさん集まっている所です。そういう地獄には、自分より強い人もいるので、今度は、殺されるほうの、経験もだいぶしなければいけなくなります。自分より弱い相手なら殺せますが、自分より強い相手には殺されてしまうのです。
そのようにして、『人殺しというものは、いかに嫌なものであるか』ということを本人が分かるまで、毎日、徹底的に、殺し合いの経験をするわけです。
殺し合いといっても、実際には肉体がないため、ほんとうの意味で殺すことはできません。しかし、肉体はなくても、その苦痛を味わいます。苦痛を感じる霊的神経の部分だけはあるのです。
生前、殺したり、殺されたり、けがをさせたり、させられたりしていた人は、『相手に苦痛を与える』という経験をしてきています。生前に経験していないものは、その痛みの感覚が分からないのですが、生前に人を傷つけたり殺したりした人は、その痛みを感じやすいのです。
それで、人を殺し、相手が血を流しているので、『ああ、死んだな』と思うのですが、しばらくすると、相手はムクッと起きあがります。あるいは、自分が殺された場合も、『殺されて死んだ』と思っても、やがてムクッと起きあがります。そして、また殺し合いが続きます。このように、終わりのない戦いが続くのです。
やくざ同士の抗争などを考えればよいでしょうが、徹底的に殺し合いをしているうちに、だんだん嫌になってきて、お互いに『もう、やめたほうがよいのではないか』と思いはじめるときがあります。
相手を殺して、『やった』と思っても、相手が生き返り、今度は自分がやられるのです。こんなことばかりを繰り返していると、たいていは嫌気がさすでしょう。『そういえば、生前も、こんな生活だったな』と思い、自分が恐怖心と憎しみと破壊の心で生きていたことに気づいて、そういう生活が、だんだん嫌になってくるのです。
その心境が、だいたい、菩提心(ぼだいしん)の目覚め、悟りへの目覚めの段階です」

この世の建物が取り壊されるとどうなるか

「あの世には、この世の建物なども現れます。この世の建物が何十年かたって壊されると、その建物は、あの世に、そのまま現れてくることがあるのです。
たとえば、美術館には、『その美術館をつくった人は、どのような気持ちでつくったのか。その美術館を運営している人は、どのような気持ちで運営しているのか』ということがありますし、その美術館に展示されている絵などの芸術作品にも、天国的なものから地獄的なものまで、いろいろあります。こういうもののトータルで、その美術館の霊的な波動というものができあがっているのです。
とても天国的な美術館の場合は、古くなって取り壊され、新しい建物に建て直されると、古い建物のほうが、天国のなかで波動のあった次元に、そっくり現れます。
そして、その美術館にふさわしい人たちが、そこに出入りするようになります。
元の美術館に展示されていた絵も、天国的な絵の場合は、そのまま天国の美術館に現れてきます。その絵の幽体部分がパッと現れてくるのです。
ところが、元の美術館の展示物のなかに、たまたま、地獄的なものが入っていた場合、その地獄的なものだけがスッと消えて、美術館からなくなっています。
一方、美術館を運営していた人の心が悪く、作品も波動の悪いものをよく集めていた美術館の場合も、この世で取り壊されて、その土地が更地(さらち)になり、ほかの建物に変わったりすると、今度は、その美術館が地獄界に現れることもあります。
その美術館へ行くと、この世の絵がデフォルメ(変形)されて、より醜悪な感じになった、怖い絵、怪奇絵が、たくさん展示されています。」

霊的視点から見た先祖供養

「先祖供養には、なかなか厳しい面があります。
あの世を信じないまま死に、もがき苦しんでいる人は、あまり行くところがないので、子孫が先祖供養をすると、子孫のところへ行きます。
先祖の霊が、たとえば血の池地獄や孤独地獄などで、もがき苦しんでいるときに、地上の子孫が仏壇などの前で一生懸命に先祖供養をすると、先祖は、自分を助けるための白い縄が上からするすると下りてきたように感じます。それをつかんでたぐると、上がることができるのです。そして、子孫のところに出てきます。
その際、子孫の側に、その先祖を供養して成仏させる力があれば、先祖は救われますが、その力がないと、子孫が逆に引っ張り込まれることも多々あります。
そのため、先祖供養は、しっかりと真理を勉強した上で行っていただきたいのです。」

死後の判定

「しかし、厳しいことに、死後には、『その人の、この世における思いと行い、考えたことと行動したことが、真理価値に照らして、どうであるか』ということが的確に判定されます。
これは、仏教だけでなく、エジプトの古代の宗教でも説かれています。『その人が善人であるか悪人であるかが、死後に正義の秤(はかり)で量(はか)られる。その結果を記録しているのはトート(トス)という神である』ということが壁画などに描かれています。
古代のイランの宗教でも同様(どうよう)です。ゾロアスター教では、『あの世に渡るときには橋の上を歩いていく。悪人の場合には、その橋が剣の刃のように細くなり、その人は下に落ちてしまう。善人の場合には、その橋をそのまま通ることができる」と説かれています。これは、あの世に渡るときの裁きの厳しさを言っているのでしょう。
そのような話はあちこちに遺(のこ)っています。
ところが、現代の知識人たちは、『それは昔話や迷信である。人々に、悪いことをせず、よいことをするようにさせるための、道徳的なたとえ話である』と考えています。しかし、その考えは間違いであり、そういう話は、ほんとうのことなのです」

毎朝が新しい出発だ

日々に工夫をすることです。

日々、人生において何かを工夫し、発明しようとしている人にとって、

人生は勝利の連続となるしかないのです。

怠惰の毎日に流されている人と、

「毎朝が新しい出発だ」と思って、新しき工夫を考えていく人、

この両者の違いは非常に大きなものとなっていきます。

(『愛の原点』第5章)

謙虚さと信念

謙虚さに裏打ちされて反省ができ、

信念に裏打ちされて不動心というものができあがるのです。

この「反省する心」と「不動心」の二つを持っていれば、

いかなる事態が起きようとも、心の平静というものを保つことができます。

(『悟りに到る道』第3章)

互いを生かし合う関係をこそ選ばなくてはなりません

断じて、妻と夫が競い合い、

お互いの長所を削ぐようなことがあってはなりません。

親と子においても同じです。

互いを生かし合う関係をこそ選ばなくてはなりません。

(『限りなく優しくあれ』第1章)

気高さを有しているということ自体が成功のための条件

私は、「気高さというものが身についてこなければ、

真に成功したとは言えないのではないか」と思いますし、

気高さを有しているということ自体が成功のための条件であるように思います。

(『成功の法』第2章)

その愛の心がみずからの内に宿っているということが

人を救いたいと思う心、

助けたいという心、

優しくありたいという心、

他人の苦しみや悲しみに黙っていることができないという心、

それが愛の心であり、

その愛の心がみずからの内に宿っているということが、

あなたがたが仏の子であるということの

唯一の証拠なのである。

(『無限の愛とは何か』第3章)