ブログ幸福の科学 -4ページ目

失敗を失敗と認めない者、失敗から、さらに成功のステップを踏み出す者にとっては、

失敗を失敗と認めない者、

失敗から、さらに成功のステップを踏み出す者にとっては、

どのような疫病神も、どのような貧乏神も、

ついには音を上げて去っていくものなのです。

(『成功の法』第6章)

幸福の科学総裁大川隆法先生 自殺念慮(ねんりょ)のある統合失調症(精神分裂病)の私

私の不幸の原因は私に原因があった
私の統合失調症は悪霊撃退祈願では治らない
なぜなら統合失調症とは言っても病気と言えるほどの状態じゃないからだ
本来は障害年金など受け取ってはならない
誰だっておなじみさんの悪霊は憑依してるもので私の病状もその程度だ
年金暮らしは苦しい
働きもしないで障害年金を受け取るのは盗(とう)に当たるのじゃないかと思う
死後どういう裁きが下されるか不安だ
私にはもっと大きな使命があって憑依程度のことで立ち往生してはいけないというのが守護霊のメッセージ・お考えのようだ
時折仕事をしてないで1日ネット遊びばかりしてると自己嫌悪になって
死にたくなるが、そういうときは総裁先生の本をよめという
守護霊のお灸・メッセージのようだ
私は興味本位でしか総裁先生の本を読んでないので自殺したくなるのだ
仏の教えに対する取り組み方が甘い 生やさしい
そんなことだから死にたくなるのだと言うのが守護霊のお考えのようだ

主イエスキリストの言葉「あなたの信仰があなたを救った」昨日悟得したと思われる主の教え

ブログをやってはいけない
私の仏性か守護霊がそういってるような気がする
幸福の科学に三帰して入会した動機は幸福の科学の内情を探るためだった
その時既に統合失調症にかかっていたが悪霊撃退祈願を何度受けても効かなかった
悪霊撃退祈願に参加しただけでも有効だと言われ嫌々参加したり幸福の科学福岡中部東支部スタッフにエルカンターレファイトをしてもらったり会員の方にも2回ほどエルカンターレファイトをしてもらったりしたが無効だった
支部のスタッフだった村橋氏には病因は「己心の魔」と謎のような言葉を言われただけだった
最初期は私が助けを求めても中堅部(今は存在しない)の会員には嘲笑・軽蔑されただけのようだ
どうも私は中堅部会員から相手にされてないらしいと悟った
一人だけ親身になってくれた中堅部会員はいたが…
岩田工業の社長の李正実(りぃまさみ)には三帰した後支部で初対面の時私が無表情でにらみつけるとにらみ返した

私の無表情は私の心の中が現れている

別ににらみつけた訳じゃないが私の無表情は相手にケンカを売ってるに等しい

当時の私は20歳代の私を「あ、こいつバカやあ」と言って侮辱し続けた中学生への怒りが10年たっても収まらず自然と無表情が怒りの顔になっているのだ

笑顔が大事だと人は言うが作り笑顔すら当時の私にはできなかった

バカバカしいからだ
李氏の表情はまるで漫画「拳児」に出た李氏八極拳士李書分公のような目だった
李正実は別にそういう訳じゃなかったのかも知れないが私は睨(にら)み返されたと感じた
なぜ私が無表情で睨んだかというとやたらめたらとケンカを売ってケンカの場数を踏んで強い男になりたかったからだ
私の学生時代からの念願だったからだ
悪魔と契約してでも強くなりたいと思ったからだ

今にして思えばエルカンターレファイトが私に効かなかったわけが分かる

私のように、あの時の中学生に対する怒りが収まらなかった私の心境では光が通らなかったのだ

悪霊撃退祈願が効かなかった度(たび)に私は内心嘲笑(ちょうしょう)したものだ
当時の私の心境はそんな状態だったのだ
私が支部を出てエレベーターに乗ってエレベータの扉が閉まった瞬間支部スタッフ吉富氏と李の会話がきこえてきた
吉富「あいつどう思う?」
李「邪魔」
今から思うとこの台詞(せりふ)は私を精神的にダメージを与えていじめるためにか、いじめて退会届を書かせるためにかケンカを売って私を強い男にするためにか、わざと聞こえるように言ったとしか思えない
それとも私の自意識過剰が原因で、こんな声が聞こえただけかも知れないが例え幸福の科学会員でも他人は信用できなかった
自分以外は皆、殺すか殺されるかの敵だ
その後統合失調症から助かりたい一心で支部でイイシラセというチラシに支部の印鑑を押すだけだったりイイシラセの配布をしたりなどボランティア活動をした
イイシラセを初めて支部周辺でポスティングしたとき住人からクレームを言われたときは私は内心怖かったが腹を据えて無表情で相手を見つめて(自分ではケンカを売って睨んだつもり)返事をしなかった
イイシラセを2度目に配布したのは地元福岡市東区西戸崎でだった
その時は青年部の人たちと一緒に配ったが配布を終えたら私は帰宅するつもりでいたのに車に乗って一緒に支部に行こうという展開になった
私は、そういうことを受け入れる心の準備ができていなかったので嫌だったが、ついてきた
しかし昼飯を長崎チャンポンリンガーハット和白店で食べようという話になった後にいざこざになった
私は昼飯を食べるお金を全く持ち合わせていなかった
それでリンガーハットの駐車場の車中で待ってると言い張ったが「おごるから」と言われて不毛な会話の応酬になり、しまいには青年部会員から私の持ってた本の題名を聞かれて遠藤周作の「沈黙」と答えたら彼から「遠藤ちゅうさく」とケンカを売られた
私は彼が怒ってるらしいのが分かって怖かったが内心、遠藤先生の名を茶化されて腹が立ったのも事実だ
本当ならここでケンカと言うことだろうが私はケンカにつなげていく腹が据わってなかったので侮辱されて悔しかった
彼は私が何故(なぜ)遠藤周作氏の小説を後生大事に持っていたか知らなかったようだ
ちゃんと動機があったのだ
幸福の科学総裁大川隆法先生の御法話講演会カセットテープで遠藤氏を成功者の例として引き合いに出されていたからだ
それで興味を持ちわざわざ買って読んでいたのだ
総裁先生が何故遠藤先生を高く評価したか知りたかったのだ
青年部の彼は、それが分からずにケンカを売ったようだ
私は他人から食事をおごってもらうのは男として恥ずかしかったので無限の会話の応酬で断り続けたのだ
西戸崎キリスト教会の知念(ちねん)勇一伝道師からもマクドナルドのハンバーグセットをおごってもらったことがあったが買ってもらった物を前にして彼の運転する車中で拒絶し続け、とうとう知念氏を怒らせてしまったこともあった
相手が腹を立てたので私は相手のハンドルを奪って事故でも引き起こしてやろうと思ったくらい腹が立ったが彼が怖かったので耐え忍んだ
何故怒るのか私には皆目見当もつかなかった
アメリカ人はイエスはイエスノーはノーというのがはっきりしているのに日本人という人種はおかしなものだと思った
アメリカでは私の態度は理解されたろうが日本人には全く理解できないようだ
私は苦しかった そういうのが
他人様からおごられる筋合いはないとはっきり思ってたからだ
私はこの記事を書き終えたら死のうと思っているが一眠りして明日になればまた心変わりするだろう
今私は<俺何してんだろう>と自己嫌悪にとらわれてる最中だ
吉富スタッフには助けを求めたことが2度ほどあったが、その度(たび)に「松原くぅん、そんな事しても何にならないよう?」と返されるだけだった
何故助けを求めたかというと実際精神的に辛かったからだ
これは幸福の科学会員でなければ分からないが
地獄霊というのは苦しい苦しいとしか言わなかったそうだ
総裁先生が霊言を収録したとき
私は地獄に堕ちた霊人の苦しみを、そのまま味わっていたのだ
こんな事言っても会員でない人には分からないだろう
これが私が今まで統合失調症の患者として通してきた動機づけになっているのだ
私の病気は単なる自意識過剰で病気のうちにはいらないかも知れないが地獄に堕ちた霊の苦悩を生身で体験していたのでどうにもならなかったのだ
支部の会員達とスタッフにはそれが理解できていただろうか?と思う
私は誰にも理解されない苦しみで自分で霊障だからと判断して雁ノ巣(がんのす)病院への通院を一度はやめたのに再通院しだしたのは、それが動機なのだ
現に私は薬を飲めば眠れるが飲まないと目がランランとさえて夜眠る状態じゃなかったのだ
それに何が辛いって小学校でよく社会問題になった学習障害のような症状が自分に繰り返し出たからだ
この気持ちは人には分からないだろう
気持ちがリラックスできず自分の狭い部屋の中をただひたらすら歩き回るという状態を今まで続けてきたのだ
この状態は雁ノ巣病院精神科デイケアにいたときも、もはや習慣になった
私はデイケアなど行きたくない
なぜならあすこに行ってもやることなど何にもないからだ
やることがないと一カ所にじっとしてるのが苦痛苦悩になりデイルームの中を歩き回るという状態を20分ほど足が疲れてやめてしまうまで続けたのだ
この苦しさは主治医だった古賀先生にも説明できなかったようで理解してもらえなかったようだ
多分あなたにも分からないだろうと思う
私自身にもなぜこうリラックスして一カ所にじっとできないのか説明がつかないのだ
今もだ
さて今日は「今日の悟り」と題して自分の今日の悟りを披瀝(ひれき)しようと思ったが、何が悟ったのかすら悟れなくなった
多分今までここで連載してきた「今日の悟り」という記事は悟ったと偽る妄悟(妄語?)に当たるだろう?…
では今日はこれまでにする
これ以上記事を書くのが困難になった
どうやら今まで私は守護霊のおかげで悟ったような気になっていただけのようだ
総裁先生の教えに「悟ったと思ったら終わり(増上慢)だ」とういのがあったが、そういうことだったかと思う
自分でこんなことを言ってるようではおしまいだろうかな…
私の人生はもうじき終わりのような気がした
死後は反省期間にはいるだろう
地獄に堕ちて2度と人間に生まれ変われなくなる可能性もなきにしもあらず
私は生きながらのサタンだ
支部に行くたびに総裁先生の法話拝聴ビデオを見ながら<大馬鹿隆法>と心中あざけ笑ったものだ
それが全てだ
もうおしまいだ
1度2度主には許されていながら、それに気づかなかったとは
では今日書くことはこれまでだ
さようなら 明日があるなら 明日会おう
ではあなたに光あれ!!
悟りを披瀝するのが如何(いか)に危険か悟った気がした
幸福の科学会員を試すために入会したのに
信仰なき者には奇跡は起きない
私はいつまで統合失調症の患者として生きていけるのだろうか…
いつまでもは許されないようだ
私の全てに対する執着をすっぱりと切り捨てて障害年金の受給をやめた方が死後の生活のためにはプラスかも知れない
人生は1冊の問題集
漫画家山田花子は自殺したのが正解だったのだろうか
自殺という答えに対しては仏は何点つけるんだろう
分からない
今日の悟りが書けない状態だ
クライアントとも話せる状態でなくなった
じゃ あなたに光あれ!!
主イエスキリストの御名(みな)において命じる
サタンよ退け!!
では明日
会いましょう
さようなら
あなたに光あれ!!
では明日
会いましょう
さようなら
あなたに光あれ!!
では明日
会いましょう
さようなら
あなたに光あれ!!


いま、あなたが置かれている状況において、光をともすことは可能です

いま、あなたが置かれている状況において、光をともすことは可能です。

嘘だと思うならば、

「いま、自分が、マイナス要因、あるいは人生の底だと思っている状況と、

同じか、それよりも悪い状況において、

世のために尽くした人がいなかったか」ということを点検してみてください。

(『希望の法』第5章)

万一もし、あなたがたの成功を妬む者が一人でもあるとするならば

万一もし、あなたがたの成功を妬む者が一人でもあるとするならば、

まだまだ徳が足りないと思わねばならない。

(『仏陀再誕』第5章)

地獄の情景 手下を念力で犬に変えてしまう親分

「念の非常に強い人であれば、地獄の人間を動物に変えてしまうこともできます。手下をたくさん持っている親分などであれば、そういうことができるのです。
たとえば、手下を集めて、よその村を攻め、略奪、強奪を行い、何十人もの人たちを奴隷として引き連れてきたりすると、その人たちを小屋のなかに入れて見張らなければいけません。
人を見張るときには相手を脅すのが最も効果的なので、凶暴な犬がいるとよいのですが、実際の犬は、それほど悪いことをしないので、あまり地獄に来ないのです。
しかたがないので、親分は、手下の顔つきを見て、動物に似ている者を探し、『こいつと、こいつは、いけそうだ』と思うと、グーッと念力をかけて、その手下を犬にしてしまうわけです。
当然、相手は嫌がりますが、親分は、『お前は見張りだ。犬のような格好をしていないと、向こうは怖くないだろう。犬の姿でガオーッと吠えていたら、向こうは逃げ出せないだろう』と言います。それで、手下のほうは『嫌だな』と思いながら、しかたなく犬の姿で見張りをするのです。
そのように、あの世は思いの世界なので、強い念力をかけられると変形してしまいます。逃げようとする人をガブッと食べてしまうような、牙がたくさん出た凶暴な犬を、念力でつくったりするわけです。
あの世は、こういうことが起きる世界です。『思いは実現する。そして、思いと思いがぶつかったときには、強いものが勝ち、弱いものは降伏して、相手の思うようにされてしまう』というのが地獄の世界なのです」

常勝思考 雪だるま型人生

「プラスの結果が出てくれば、もちろんそれを力としていく。

マイナスの結果が出てくれば、それを反省材料として教訓を身につけ、

さらに大いなる発展の種を播いていく。

何が出てきても、雪だるまのように転がって大きくなっていくしかない」

--このような生き方をしていると、人生は楽しいですし、

常に勝利を続けていることになります。

(『常勝思考』第四部)

肉体と魂を結ぶ霊糸線(シルバーコード)

「霊糸線は、昔の言葉で言えば、『魂(たま)の緒(お)』といい、英語では『シルバー・コード』(銀線)といいます。それは、実際に銀色に見えますが、光り方によっては少しオレンジ色がかった銀色に見えることもあります。そういう線が魂と肉体を頭の部分でつないでいるのです。これを見た人が古今東西にいて、相互の関連なく、そういうことを報告しています」

近代兵器は古代人の霊には通用しない

「みなさんは、『死んであの世に行くのは人間の霊体だけだ』と思っているかもしれませんが、実はそうではありません。物もあの世に行きます。一定の形や機能を持って存在したものは、この世で消滅すると、霊界に現れるのです。
イラク軍の戦車隊が地上から消滅すると同時に、イラクの兵隊がいる阿修羅界に、その戦車もドーンと現れてきます。その世界では、まだ戦車隊も動いています。しかし、アメリカの戦車は1台もないため、敵がいないわけです。
地獄の阿修羅界には古代の兵隊もいるので、イラクの兵隊が敵を捜していると、そういう古代の兵隊と遭遇することがあります。そのときに、興味深いことが起こります。
イラク兵たちは戦車で砲弾を撃ちます。心の世界なので、そういうものが『ある』と思えばあるわけです。
その武器で、弓矢の世界の古代人たちと戦うと、どうなるでしょうか。
イラク軍の戦車の砲弾がバーンと飛んで、古代人たちの所に着弾します。ところが、当然、爆発するするはずなのに、爆発が起きないのです。『おかしいな』と思って、また撃ちます。しかし、何度、弾を撃っても、やはり破裂しないのです。
なぜかというと、古代人たちは、戦車や砲弾というものを知らないので、イラク兵が何をしているのかが認識できないからです。『何か箱のようなものが動いてきて、丸いものが飛んでくるのだけれども、何が飛んできてるのだろう』と思い、首をひねっています。それが何なのか分からないので、怖くも何ともないのです。霊界では、認識できない武器で攻撃されても被害は出ません。
したがって、霊界で古代人と戦うには、石でも投げたほうがよいのです。石を投げたり、弓矢や槍(やり)を使ったりすれば、彼らも一目で分かります。しかし、戦車で砲弾を撃っても、彼らは何も感じないし、何をされたのかも分からないのです。
彼らは、飛行機が飛んできても、『大きな鳥が飛んでいる』としか思いませんし、爆弾を落とされても、『鳥の大きなフンが落ちてきた』というぐらいにしか見えません。そのため、爆弾が落ちてきても爆発しないのです。『大きいフンが落ちている』と思うだけで、被害は何もないわけです。
霊界では近代兵器は古代人にはまったく通用しないので、肉弾戦をするしかありません。手で殴るか、刃物を使うか、それしか方法がないのです」

あの世の学校での「創造訓練」

「人間界に比較的近い世界より、もう少し上の世界へ上がると、その世界の住人たちは、『思えば、いろいろなものが現れる』ということを知っていて、念でものを出しはじめます。
そこでは、創造訓練をよく行っています。たとえば、『チューリップの花を1本、念じて目の前に出してみせる』というようなことを勉強会で行うのです。
あの世の学校でも、『霊界は念の世界であり、思ったものが現(あらわ)れる』ということを実験するために、先生が生徒を集め、『いまから私が模範を示すから、見ていなさい』と言って、赤いチューリップを一瞬のうちに出したりします。
そして、『さあ、みんなも頑張ってみよう』と言われて、生徒たちがチューリップを出してみるのですが、グニャッと曲がったもの、萎(しお)れたもの、色が違うものなど、いろいろなものが出てきます。
この念力訓練は、けっこう難(むずか)しく、出そうとするものを見事にありありと描かないと出てこないのです。
最初は、小さなものから訓練していきます。
訓練が少し進むと、次に、『犬を1匹出す』などということをします。先生が念力を集中して、しばらくすると、犬が現れてきます。生きている犬とそっくりで、尻尾(しっぽ)を振りながらペロペロとなめてきたりして、本物のペットのように動きはじめます。まるで魔法のようで、生徒たちは、『すごいな。先生は、さすがに大したものだな』と感心します。
生徒が個人でやると、なかなか先生のようにはうまくいかず、何だか訳(わけ)の分からない、でき損(そこ)ないの動物がたくさん出てきます。
そこで、『10人ぐらいで一緒にやれば、うまくいくのではないか』と考え、力を合わせて、『こういう生き物を出そう』と頑張って念じていると、だんだん、ハトを出したり、犬を出したり、猫を出したり、することができるようになってきます。
そのようにして、大勢の人の思念を集めてつくったものは、あの世でしばらくのあいだ実在しています。もともとは存在しないものですが、念が集まると、あの世にある、いろいろな霊質(霊的な物質)、幽体のようなものが再構成されて、つくられるのです。」